AIという表象

 昨今AIの話題は、特に科学に関心がない人でも口にする。それほど、AIは世間に浸透しているといえる。確かにAIは現代のテクノロジーの最先端を走っていることは間違いない。しかし、それはAIに限らず、iPS細胞やゲノム解析だって同じことだ。それにもかかわらず、AIだけが飛びぬけて一般の人にも浸透しているようにみえる。なぜだろうか。
 その原因の一つは、ロボットというのはイメージがしやすいからである。それは今後AIが活用されていくであろう場面は、日常生活の場面だからというのがある。また、AIはただのロボットではなく、人工知能なので、会話ができたりするため、人間に近い、擬人的なものだからである。
 しかし、日本人にAIが浸透している原因はこれだけではないと考える。このような理由は日本だけでなく他の国にも共通していえることである。もう一つ、日本人に固有の理由がある。それは、これまで日本人が人工知能と長く生活を共にしてきたということである。人工知能はこれからの技術だというのに、これまで生活を共にしてきたというのはどういうことであろうか。

 それは、ドラえもん鉄腕アトムである。この二者は紛れもなく人工知能であり、人工知能の完成形といえるだろう。そして、架空の世界とはいえ、この二者の日本人に対する浸透度は計り知れないものがある。それゆえ、日本人はこれからきたる人工知能に対しても、違和感なくイメージがしやすいのである。
 推測の域は出ないが、このような生活を共にするロボットというイメージは日本人に固有なものなのではないだろうか。たとえば、アメリカを考えてみると、ヒーローという点ではスーパーマンスパイダーマンバットマンなどであり、ロボットではない。生活を共にするという意味では、ディズニーやセサミストリートが考えられるが、これらもロボットではない。ドラえもん鉄腕アトムのような生活の身近にあるロボットというのは、いないのではないだろうか。
 それではなぜ日本には、イメージの世界とはいえ、このような生活を共にするロボットが存在してきたのかは今後の課題である。