後悔の哲学

後悔をするときは必ず自分のしたことに対する後悔である。他人がしたことであっても、自分が違う仕方で関われたのではないか、自然がしたことであっても、そうである。

 後悔するときは、自分が違う仕方でできたのではないかという仮定が前提となっている。発言に対する後悔ならば、言う必要があったのか、違う仕方でいえたのではないかと。

 この「自分が違う仕方でできたのではないか」というのは妥当な仮定だろうか。後から考えれば、自分のした行動は別の仕方でも難なくできたように思える。ただたまたまある方法が選ばれ、それで失敗してしまったと。別の方法でやることもできたはずだと。

 しかし、無限ともいえる行動のパターンからなぜかある一つの方法が選ばれた。もしくは自然とそうなってしまった。それがなぜその行動であったのか。必然なのか偶然なのか。

 それは必然なのであろう。意識、無意識、外的な状況全てがトータルにかみ合ったうえで、ある一つの方法が選ばれる。たわいもないこと、AでもBでもよかったはずのことでもそれがAである必然性があった。だからこそ、そのAが現実化している。それ以外の仕方はあり得なかった。

 しかし、人間は思考する生き物であるがゆえ、後から自由に「たられば」を考えてしまうのである。最初に言ったように、自然災害そのものに対して後悔する人間はいない。それは自分にとってはどうしようもないことだからである。人は自分にとってどうにかできたこと(そのように見える)に対して後悔をする。どうにかできたように見えるというのは、自分の行動に対してなのだが、自分の行動というのはどうにかできたものなのか。実はそれも自然災害と同じようなことなのではないか。

 自分の行動がどうにかできたように見えるという背景には、自分の行動、発言は100%コントロールできるという前提がある。しかしそうだろうか。考えるまでもなく、人間は自分の行動、発言を100%コントロールすることなどできない。自分の行動すらである。

 たとえば、思いつき、衝動など、つまり瞬間的なこと、特にこのような瞬間的なことに対して、特に人間は自分のコントロールを失う傾向がある。

 まして右に行けばいいか左に行けばいいか、その時点ではわからないということもままある。そちらに行けば良かったのかと後からわかった時に後悔するだけである。

 話を戻すと、自分の発言、行動を100%コントロールできないということであれば、それはもう自然災害のようなものなのではないかということである。自分の心すら、発言すら、行動すら、自分の管理の範囲を超えた自然災害のようなものなのではないかということである。

 それが起きてしまったのなら、嵐が過ぎ去るのを待つようにただ耐えるしかないという時もあるのかもしれない。