インドの祈祷師は日本の妖怪に対処できるのか 3

 できる。もし祈祷師が日本の妖怪に対して、地理的条件を気にすることなく、日本の妖怪だろうと何だろうと、これは自分の知っている魔物だと、つまり、自分が持っている既存の知の枠組みに、日本の妖怪を当てはめてしまうなら、インドの妖怪は日本の妖怪に対処できる。

 だが、既存の知の枠組みに新たな現象を当てはめるというのは進歩の無いことではなかろうか。

 これは魔物や妖怪が実体のないものだから可能なのである。もし魔物や妖怪に実体があればどうだろうか。日本の妖怪はある部分はインドの魔物に似ているかもしれない。しかし、インドの魔物が使わない新奇なわざを日本の妖怪は繰り出してくるかもしれない。インドの妖怪と同じものだと決めてかかっていたインドの祈祷師はその新たなわざにやられてしまうかもしれない。

 それでは実体がない対象に対しては、既存の知に当てはめるという行為は有効なのだろうか。それは「対処する」という段階において有効なのである。対処の次の段階、すなわち、それが適切な対処であるかどうか、その対処が成功するかどうかという点については疑問符がつく。

 流れとしては、対処する姿勢を作れるか否かという点が第一段階としてあり、その対処が成功するかどうかという点が第二段階としてある。

 ただある事象においては向き合うことそれ自体が有効な対処となる領域がある。それが臨床心理の世界なのである。そして、臨床心理においては、向き合う段階で意図的に止める必要がある。

 悪魔祓いや臨床心理において、向き合うこと自体が有効な対処となるならば、そこに「間違い」は存在しないのだろうか。

 臨床心理においては、「間違い」は存在する。誰か悩んでいる人がいたときに、何かをしてあげよう、話を聞いてあげようと思う。ここまではよい。しかし、何かをしてあげようと思うあまり過剰にアドバイスをしすぎるなどすれば、やはりそれは間違いなのである。

 悪魔祓いにおいてはどうか。村に悪魔に憑りつかれるものが出る。そこに素人が向き合おうとして試行錯誤をする。この行為は有効なのだろうか。やはり素人の試行錯誤とプロの悪魔祓いは違う。何が違うのか。一つ挙げられるのは、悪魔に憑りつかれた者の信頼性であろう。自分は今有効な対処を受けている、きちんとした悪魔祓いを受けていると心の底から感じていれば、それが実際にも有効な対処となる可能性が高いだろう。

だが、村人が腕を骨折したとする。そこにプロの悪魔祓いが腕に悪魔が憑りついたとみなし、悪魔祓いを試みる。村人もこれで私の腕は大丈夫だと安心する。しかし、腕の痛みはなくならない。やはりこの場合は間違った対処であることになる。