インドの祈祷師は日本の妖怪に対処できるか

 一つの思考実験をしてみたい。それはインドの祈祷師は日本の妖怪に対処できるのだろうか、というものである。これは祈祷師に限らず、呪術師、シャーマンなどでもよい。また、インドでなければならない理由はない。シャーマンや祈祷師は、悪魔や魔物という存在するかしないか定かではないものを相手にする職業である。現代人の目から見ると、前近代的とみえるのだが、この仕事はでたらめなものではなく、体系だった教育のもとに専門家が育成される、そしてその教育には何年もかかるという高度専門職なのである。
 ここで想定されている悪魔や魔物というのは土着的なものである。すなわちその民族に特有の魔物なのである。しかし一方で、どの民族にも名称は違えど、悪魔や魔物は存在するし、それに対処する職業も存在するのである。
 そこで一つの疑問が浮かぶというのは、ある民族の祈祷師が、別の地域に行った場合に仕事はできるのか、というものである。

 インドの祈祷師はインドの妖怪を想定して訓練を受けている。その妖怪にはインド流の名前がついているだろう。妖怪とは言わずに魔物というかもしれない。インドの妖怪を想定して訓練を受けた祈祷師は、通常、インド国内で、祈祷・おはらい等を依頼され、それは○○という名の悪魔の仕業だから、その悪魔に合わせた儀式を執り行う。そして儀式が終われば、祈祷師、依頼者共々悪魔は去ったものだと安心し、また平穏な生活が送れる。

 ではこのインドの祈祷師を日本に連れてきてお祓いをさせるとどうなるだろうか。当然日本の妖怪にはインドの妖怪とは違う名前がついている。ここでは色々な考え方ができる。一つは日本の妖怪もインドの妖怪も元々は同じもので、ただ呼ばれ方が違うということである。もう一つは名前も違うし、実体も全く違うものだという考えである。

どちらが正しいのだろうか。それはインドの祈祷師自身が決めるしかない。インドの祈祷師の考え方次第である。彼が、インドの妖怪も日本の妖怪も名前が違うだけで実体は同じものだと考えれば、彼は依頼を引き受けるだろう。インドと日本の妖怪は全然別物だから自分には対処できない、と考えれば彼は依頼を引き受けないだろう。

 したがって、日本人の依頼を受けることにしたインドの祈祷師は、日本の妖怪は名前が違うだけで、実体は同じであろうという考え方を持っている、と想定できる。もし日本での儀式までに時間があるならば、彼は日本人に頼んで、日本の妖怪の名前を見せてもらい、インドの妖怪との照合をはかり、今回依頼された問題を分析し、これはインドで言う所のこの妖怪と同じだということで、妖怪を断定し、その妖怪ならばこの儀式が使えるはずだということで、準備をして日本に向かうだろう。そして無事に儀式は終了し、日本の家族も安心してまた平穏な日常を送る。

 以上が思考実験の概要であるが、ここでいくつか問題が生じるので整理してみよう。このような前近代的とも言うべき祈祷の意味は何か。例えば、どういう問題があって依頼が行われるのか。適応不適応の問題はあるのか。

 祈祷師に依頼が入るためには依頼主の「悪魔に憑かれた」という解釈をしなければならない。例えば妻が数日前からベッドから起き上がれなくなり、表情も虚ろで何もする気が起きないという症状があるとする。これは現代医学でいうならばうつ病と解釈されるかもしれない。だがその家族はそれを悪魔に憑かれたと解釈した。うつ病であれば病院へ行くが、悪魔に憑かれたならば、祈祷師へお願いしなければならない。そしてこれが成立するためには、第一に夫の悪魔に憑かれたという解釈が必要である。そして治るためには病人である妻が普段から悪魔的世界観を生きていなければならない。

 「インドの祈祷師は日本の妖怪に対処できるのか」という命題を検討するとき、考え方はいくつかあるが、一つは日本の妖怪とインドの妖怪は同じか違うかという問題がある。これは端的判断不可能である。そしてもう一つは「対処できるのか」という点である。ここでの主語が単なるインド人ではなくインドの祈祷師となっている所にポイントがある。彼は素人ではなく何らかの訓練を受けた専門家だということである。専門家を専門家たらしめている所以は事実をしっているかどうかにあるのではなく、その問題に対処できるかという点にある。