感覚と判断について

 「感覚」というと、通常、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のような五感のことを指すだろう。しかし、「感覚的に判断する」という文における「感覚」は五感のことではない。それは、推論を経ることなく、判断するという意味であり、この場合の「感覚」は推論を経ないという意味合いで使われている。
 たとえば「鍵を閉めたことを確認する」という行為における判断は、このような感覚的な判断を使っている。それは、鍵が閉まっていることを、推論や検証などの厳密な手続きを経て判断しているわけではないからである。ほとんどの人が施錠の確認などはほぼ無意識の段階で処理しているのではないだろうか。もちろん、用心深い人は鍵が閉まっていることを、意識的にきちんと確認して出かける人もいるだろう。だが、このような人でも、鍵が閉まっていることについて、悩んだり、疑いを投げかけたりはしない。

 鍵を閉めるときには、その鍵の種類にもよるが、回すタイプの鍵であれば、回した時の鍵がかかった感じ(触覚)、かかったという音(聴覚)、ドアの隙間に見える鍵の棒が出ていること(視覚)等を無意識のうちに判断している。そして、これらのうちの一つまたは複数から、「鍵がかかった」という判断をし、その場から去ることになるだろう。
  このような感覚的な判断が要求される別の例は食事である。食事をいつ終えるか、その判断は、満腹感という感覚に頼っている。すなわち、「お腹がいっぱいだ」という感覚が来た時に食事を終えるのである。しかし、何らかの原因で、この感覚が来なければどうなるか。食事を終えることができず、無制限に食べ続けるという事態が生じかねない。これがいわゆる摂食障害というものである。