知の4つの視点

 知に対する四つの視点を考えてみたい。それは神の視点、未来人の視点、知者の視点、一般人の視点である。

 「知」について考える時に、まず知と呼ばれるものは情報だろう。我々が何かを知っているという時、ある情報を知っているということをイメージするのではないか。ただこれは必ずしも知の定義にはあてはまらない。たとえば、日本人は皆日本語を話せて、日本語についての情報を膨大に有しているが、それは知とはみなされないだろう。それは日本人なら知っているのが当たり前で、周囲の人との差がないからである。逆にアメリカにおいて、日本語を知っていればそれは知とみなされ、日本語を周囲のアメリカ人に教えることを職業にできるということも生じうる。このような互いの知識に差があるときに、それは初めて知とみなされ、ここに知者の視点と一般人の視点が生まれる。すなわち、知者の視点と一般人の視点には知識に差があることが前提とされ、そこに「知」と呼ばれる要素が見いだされることとなる。

 知者は知を持つものであるのだが、その知は常に正しい知識とは限らない。なぜなら人類の知識は常に進歩していくものであり、過去には知とみなされていたものが、現在の視点からみれば間違っていたということはよくある。たとえば医学における瀉血などはそのいい例だろう。瀉血とは、体調が悪い時や、病気になった時に、血を抜くことで効果をあげようとする方法であるが、現代の西洋医学ではその効果は疑問視され、ほとんど行われていない。ワシントンが瀉血を施されたことで、亡くなったというのは有名な話であるが、その当時は瀉血が有効だと信じられていた時代であった。ワシントンを治療した医師は、現代の視点からみれば間違った処置を施しており、意図的でないとはいえ、ワシントンを殺したようなものである。しかしやはり当時において、その医師は知者の位置に立っていたものであり、瀉血は妥当な治療法だと考えられていた。したがって、ワシントンが亡くなっても、誰も医師のことは責めなかっただろうし、医師自身も罪の意識を感じなかっただろう。なぜなら当時において瀉血は有効な治療法であり、医師はその知に基づいて実践をしただけであるのだから。このように知者の視点における知は、時代の制約を受けた知である。それは、その時点において正しい知とはみなされているものの、その正しさは相対的なものであり、時代が過ぎれば、正しくない知として棄却される可能性を持つ知である。そしてここに未来人の視点が登場する。

 知に対する未来人の視点は、人間の知が時代を追うごとに進歩していくということが原因で生じる。われわれが現在正しい知とみなしている事実も、未来の視点からみれば、間違っているということはいくらでもある。つまり現在、知と呼ばれているもの、すなわち知者と呼ばれるものが有する知識は、絶対的なものではなく、未来には否定される可能性を有している知なのだということである。それは言い換えると、知に対する人間の限界でもある。人間の知覚能力は完璧ではないため、常に限定的な知をもつことしかできない。ただこの限界の境界線は固定されたものではなく、人類が世代を超えて学問を継承していく能力を有しているがために、世代を超えて知は正しい知識へと漸進的に接近していくことは可能なのである。

 時間が経過すればするほど、人類の知は増えていき、正しい知へと近づいていく。しかし、完全に正しい知識へと限りなく接近することは可能であるが、正しい知識へ到達することは永遠に不可能である。それは0.99999....をいくら積み重ねても、1へとたどり着くことはないのと同様である。そして完全に正しい知識があるとすれば、それは神のみが知りうるものであり、人間がたどり着くことは不可能なのである。なぜなら、人間の知覚能力には限界があるため、何かを知覚することができても、常に知覚できない余白が残るからである。完全に正しい知識は人間にとって、理念という永遠の虚焦点として存在するに過ぎない。ここに知に対する神の視点が生まれる。

 これら四つの視点を踏まえたうえで、専門家とは何かを改めて考えてみよう。まず専門家が有する知は、知を持たない者、すなわち一般の人との相対的な知識の差が必要とされる。しかし専門家が持っているその知識は、現代という状況の中で人類がたどり着いているまでの知識という、制約された暫定的なものであり、ある問題に対して、完全な解決策を与えてくれる知識ではない。

 物理学の研究者であれば、自分が現在研究していることが、何年か経てば古い知識となるということは当然のことであり、そのように人類の知識は進歩していくものだということは、何ら問題のあることではない。しかし、医者や心理臨床家の場合は少し事情が異なる。これらの専門家たちは、臨床という場で、目の前で困っている患者を限定的な知識で助けなくてはならないからである。さらに患者の側は、それらの専門家たちに対して、完全な知識、すなわち神の視点にある知識を有していると想定し、自分の病を治すという期待をかけてくるだろう。このとき、医者も含めた臨床家たちはジレンマを抱えることとなる。