符合的真理

 符合的真理とは、言語(観念)と事実(現実)が一致したときに真とされる真理のことである。

 たとえば「テーブルの上にみかんがある。」という命題は、現実のテーブルの上にみかんがあれば真となり、みかんがなければ偽となる。

 この真理は、「真理」という言葉を使う場合、何も言及がなければ、まず第一にイメージされる一般的な真理観のように思われる。

 学問でもこの真理観が多く利用されている。たとえば物理学においても、ある理論(たとえば相対性理論のような)が妥当かどうかを確かめるときに様々な形での実験が試みられ、その理論が正しく結果を予測できていれば、その理論は有効な理論として認められる。

 だが、心理学においてはどうだろうか。心という対象が目に見えない以上、この符合的真理観は適用できないということになる。符合的真理観が適用できないということはすなわち、「科学的ではない」ということを意味する。

 そこで心理学は「科学性」を担保するために、目に見える「行動」を研究の対象とすることを考えた。それが行動主義心理学である。

 確かにそのことにより、行動主義心理学は学問として成立している。しかし、心理学本来の目的である「人間の心を研究する」という点においてはいささか不満が残るのではないだろうか。

 一方、「人間の心を研究する」を研究するという点において、直接的にその目的を達成しているかのように”思われる”心理学は精神分析である。

 精神分析は、あたかも心が物理的な構造を有しているかのように心の部分に名前をつけていく。そして、あたかもその部分が機械のように働きを行うような仮定をすることで知識を積み重ねてきた。精神分析の別名が「力動的心理学」と呼ばれるのはこのためである。

 しかし、この「あたかも」はいつのまにか忘れられるのが世の常である。あたかも心が構造を有しているように便宜的に論じているだけなのであるが、精神分析学者はそのことを忘れ、実際に心がそのような構造を有しているように考えている人が多い。

 忘れてはいけないのはこの「構造」は、我々が通常暮らしている三次元の世界からくるアナロジーに過ぎない。心は三次元的対象ではないのである。

 しかし、この三次元的ではない心について、何らかの知をもつことが求められているのも事実である。特に、臨床心理士のような臨床家においては、クライエントの心に向き合うことが仕事なので、心についての知をもつことが強く要請される。というよりも知を持つことが専門家たるゆえんなのである。知の無い所に専門家はいない。

 

『論考』から『探究』 自閉症から定型発達へ

 哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの著作に『論理哲学論考』『哲学探究』がある。ヴィトゲンシュタインの哲学は前期と後期に分かれるが、『論考』は前期の『探究』は後期の代表作である。

 今回の文章で提起したいのは、『論考』から『探究』への哲学の変化が、自閉症的世界観から定型発達的世界への変化として読めるのではないだろうかということである。 

 後からの判断ではあるが、ヴィトゲンシュタインアスペルガー症候群だったのではないかと言われている。現在の精神科の診断基準として使われているDSM-Vでは、アスペルガー症候群自閉症の概念に吸収され、自閉症スぺクトラムとしてひとまとめにされている。そこでは、従来のアスペルガー症候群自閉症の程度の軽いものとして扱われているのである。つまり、ヴィトゲンシュタイン自閉症的な傾向を有していたということができる。

 『論考』が自閉症的世界観を有しているというのは、どのような点にあるか。それは言語と対象が一対一対応になっているという考え方である。たとえば「イス」という言葉が現実のイスを指し示しており、「イスの上にみかんがある。」という文は、現実のイスの上にみかんがのっているという状況を描写しているというような言語観である。

 確かに言語にはこのように現実を描写する役割がある。しかし言語は多様な側面があり、このような描写の役割だけをしているわけではない。たとえば、挨拶、依頼、期待、命令、といったような役割は、描写という点からだけでは説明ができない。ヴィトゲンシュタインが、『論考』後に言語の別の側面に気づき『探究』の言語観へ変化したのも、このような点が主なものであった。『探究』では命令であったり、直示的定義の難しさなどが語られている。

この二つの作品の対比を語るためには、先に人間が言葉を発するときにどのような言葉を選ぶか、その選び方についての考察が必要である。(続く)

 

インドの祈祷師は日本の妖怪に対処できるのか(追記)

思考実験

 一つの思考実験をしてみたい。それはインドの祈祷師は日本の妖怪に対処できるのだろうか、というものである。これは祈祷師に限らず、呪術師、シャーマンなどでもよい。また、インドでなければならない理由はない。つまり、この問いは一般的にいえば、シャーマンや祈祷師などの職業は、別の地域でも活躍できるのかということになる。

 

シャーマンとは

 まず、シャーマンとは何だろうか。ある村で病人が出たとする。その病が身体的なものではなく、現代でいうところの精神病や神経症のような症状の場合、原因がよくわからないために、悪魔に取りつかれたという解釈がなされる。その病を治療するためにはとり付いた悪魔を追い払う必要がある。その追い払う役目を担うのが、シャーマンや祈祷師、呪術師などの職業なのである。追い払う方法は、主に儀式である。その儀式は地方によって異なるし、悪魔の種類によっても異なる。また、現実的な話であるが、その儀式を依頼する家族の経済状況によって、儀式にかけられる資財がことなるためそれによっても儀式は変わってくる。儀式は夜通し行われ、村中のものが参加し、盛大に行われるものもある。このような儀式によって、悪魔を追い払い、患者の症状を治療するというのがシャーマンや祈祷師の役割である。

高度専門職としてのシャーマン 

 このようにシャーマンや祈祷師は、悪魔や魔物という存在の有無が定かではないものを相手にするため、現代人の目から見ると、前近代的  荒唐無稽なものにみえるだろう。しかし、この仕事は決してでたらめなものではない。体系だった教育のもとに専門家が育成され、その教育には何年もかかるという高度専門職なのである。儀式の執り行い方、悪魔の種類、患者の症状から悪魔の種類を判別することなど、覚えることは多岐にわたる。

相互信頼性

 シャーマンが想定している悪魔や魔物というのは、通常土着的なものである。すなわちその民族に特有の魔物なのである。そのような魔物は、勝手に想定されているわけではなく、伝承や神話などの形でその民族に伝統的に受け継がれているのである。したがって、魔物の存在は、シャーマンのみならず一般の民衆にも共有されているのである。つまり、病人が出たときに、まずはその家族が悪魔に取りつかれたという判断をし、シャーマンに依頼をするわけである。このような、相互の信頼性がシャーマンの治療の前提となっているわけである。 

シャーマンは別の地域で仕事ができるか

 しかし一方で、どの民族にも名称は違えど、悪魔や魔物は存在するし、それに対処する職業も存在するのである。そこで一つの疑問が浮かぶというのは、ある民族の祈祷師が、別の地域に行った場合に仕事はできるのか、というものである。

 シャーマンの土着性

 インドの祈祷師はインドの妖怪を想定して訓練を受けている。その妖怪にはインド流の名前がついているだろう。妖怪とは言わずに魔物というかもしれない。インドの妖怪を想定して訓練を受けた祈祷師は、通常、インド国内で、祈祷・おはらい等を依頼され、それは○○という名の悪魔の仕業だから、その悪魔に合わせた儀式を執り行う。そして儀式が終われば、祈祷師、依頼者共々悪魔は去ったものだと安心し、また平穏な生活が送れる。

インドの魔物と日本の妖怪は同じか

 ではこのインドの祈祷師を日本に連れてきてお祓いをさせるとどうなるだろうか。当然日本の妖怪にはインドの妖怪とは違う名前がついている。ここでは色々な考え方ができる。一つは日本の妖怪もインドの妖怪も元々は同じもので、ただ呼ばれ方が違うということである。もう一つは名前も違うし、実体も全く違うものだという考えである。

シャーマンが決めるしかない

 どちらが正しいのだろうか。それはインドの祈祷師自身が決めるしかない。インドの祈祷師の考え方次第である。彼が、インドの妖怪も日本の妖怪も名前が違うだけで実体は同じものだと考えれば、彼は依頼を引き受けるだろう。インドと日本の妖怪は全然別物だから自分には対処できない、と考えれば彼は依頼を引き受けないだろう。

 したがって、日本人の依頼を受けることにしたインドの祈祷師は、日本の妖怪は名前が違うだけで、実体は同じであろうという考え方を持っている、と想定できる。もし日本での儀式までに時間があるならば、彼は日本人に頼んで、日本の妖怪の名前を見せてもらい、インドの妖怪との照合をはかり、今回依頼された問題を分析し、これはインドで言う所のこの妖怪と同じだということで、妖怪を断定し、その妖怪ならばこの儀式が使えるはずだということで、準備をして日本に向かうだろう。そして無事に儀式は終了し、日本の家族も安心してまた平穏な日常を送る。

 以上が思考実験の概要であるが、ここでいくつか問題が生じるので整理してみよう。このような前近代的とも言うべき祈祷の意味は何か。例えば、どういう問題があって依頼が行われるのか。適応不適応の問題はあるのか。

 祈祷師に依頼が入るためには依頼主の「悪魔に憑かれた」という解釈をしなければならない。例えば妻が数日前からベッドから起き上がれなくなり、表情も虚ろで何もする気が起きないという症状があるとする。これは現代医学でいうならばうつ病と解釈されるかもしれない。だがその家族はそれを悪魔に憑かれたと解釈した。うつ病であれば病院へ行くが、悪魔に憑かれたならば、祈祷師へお願いしなければならない。そしてこれが成立するためには、第一に夫の悪魔に憑かれたという解釈が必要である。そして治るためには病人である妻が普段から悪魔的世界観を生きていなければならない。

 「インドの祈祷師は日本の妖怪に対処できるのか」という命題を検討するとき、考え方はいくつかあるが、一つは日本の妖怪とインドの妖怪は同じか違うかという問題がある。これは端的判断不可能である。そしてもう一つは「対処できるのか」という点である。ここでの主語が単なるインド人ではなくインドの祈祷師となっている所にポイントがある。彼は素人ではなく何らかの訓練を受けた専門家だということである。専門家を専門家たらしめている所以は事実をしっているかどうかにあるのではなく、その問題に対処できるかという点にある。

言葉を発するということについて

 人が言葉を発するとき、それは色々な場面が考えられる。会話の場面など、複数の人間がいる時に言葉を発することがまず考えられる。また、一人の時でも、独り言ということばがあるように、言葉を発することがある。
 まず、会話の場面における発言について考えてみたい。このようなとき、発言に対する通常のイメージは、ある主体の心の中に言葉が浮かび、それを相手に伝達するというものである。だが、人間は心に浮かんだことをすべて発言するわけではない。まず自分の心に浮かんだ言葉ないしはイメージについて、その場にふさわしい言葉か、相手に嫌な思いはさせないか、自分が非難されないだろうか、というようなことを考え、自分の中で取捨選択したうえで、発言するだろう。つまり、会話の場面において人が発する言葉は予めスクリーニングされたものになるということである。(続く)

AIという表象

 昨今AIの話題は、特に科学に関心がない人でも口にする。それほど、AIは世間に浸透しているといえる。確かにAIは現代のテクノロジーの最先端を走っていることは間違いない。しかし、それはAIに限らず、iPS細胞やゲノム解析だって同じことだ。それにもかかわらず、AIだけが飛びぬけて一般の人にも浸透しているようにみえる。なぜだろうか。
 その原因の一つは、ロボットというのはイメージがしやすいからである。それは今後AIが活用されていくであろう場面は、日常生活の場面だからというのがある。また、AIはただのロボットではなく、人工知能なので、会話ができたりするため、人間に近い、擬人的なものだからである。
 しかし、日本人にAIが浸透している原因はこれだけではないと考える。このような理由は日本だけでなく他の国にも共通していえることである。もう一つ、日本人に固有の理由がある。それは、これまで日本人が人工知能と長く生活を共にしてきたということである。人工知能はこれからの技術だというのに、これまで生活を共にしてきたというのはどういうことであろうか。

 それは、ドラえもん鉄腕アトムである。この二者は紛れもなく人工知能であり、人工知能の完成形といえるだろう。そして、架空の世界とはいえ、この二者の日本人に対する浸透度は計り知れないものがある。それゆえ、日本人はこれからきたる人工知能に対しても、違和感なくイメージがしやすいのである。
 推測の域は出ないが、このような生活を共にするロボットというイメージは日本人に固有なものなのではないだろうか。たとえば、アメリカを考えてみると、ヒーローという点ではスーパーマンスパイダーマンバットマンなどであり、ロボットではない。生活を共にするという意味では、ディズニーやセサミストリートが考えられるが、これらもロボットではない。ドラえもん鉄腕アトムのような生活の身近にあるロボットというのは、いないのではないだろうか。
 それではなぜ日本には、イメージの世界とはいえ、このような生活を共にするロボットが存在してきたのかは今後の課題である。

AIは嘘をつくか

 昨今、人工知能(AI)についての話題が絶えないが、人工知能の水準がより上がっていったときに、人工知能が嘘をつくという事態は起こりうるのだろうか。それを考えるためには、まず嘘をつくということがどういうことなのかを考えてみる必要がある。
 「嘘」が成立する状況を考えてみると、主体が、ある命題を真実だと認識しているにもかかわらず、何らかの意図により、別の命題を相手に伝えるというときに、嘘は成立する。その意図というのはいいときもあれば、悪いときもあるだろう。しかし、少なくとも何らかの意図は必要なのである。したがって、嘘が成立するためには、嘘をつく主体に意図があることが前提となるわけである。となると、この問題は、「人工知能が何らかの意図を持つことは可能か」というもの還元されるだろう。
 また、人工知能が、何の意図もなく、別の命題を伝えてしまった場合は、嘘ではなく誤作動と呼ばれるだろう。それを人間が後から勝手に嘘をついたと解釈することがあったとしても、それは本質的な嘘ではないということになる